マンハッタンラブストーリー

クドカンの作品は、といっても木更津とマンラブしか見てないのであれなんですが、まあいいか、前にも書いたけど「週間漫画誌」のようだ。はっきり言えばジャンプチックだ。ジャンプチックというのは、キャラありきの展開です。ストーリーは無くてもよくて、大枠、最後の目標とかの設定があって、その枠の中でしっかり完成したキャラがドラマを展開するというものです。もちろん、すべての物語とはそういうものではあるんですが、特にキャラクター偏重で、キャラを生かすためなら、文字どうり生死も含めて、ストーリーの進行や整合性をあるていど無視してしまうというものです。演出に関しても、話の見せ方ももちろん重要ではあるが、キャラの魅せかたが重要視されます。だから、例えば木更津キャッツアイのメンバーが、もし海外旅行をしたら、とか、異世界にいったら、とかいくらでも話は作れると思います。
木更津キャッツアイは、ぶっさんが主役の少年漫画の王道のような話でした。なのに、あっさりぶっさんがホテトルに走るのにはビックリしました。まあ、結局未遂に終わったので安心しましたが。
さて、マンハッタンラブストーリーは、どんな感じなのか。これはキャラクターのみで展開される、人間喜劇なんだろうと思う。しかも、いかにも現代的な人物造形で、類型的な人物は皆無である。ここは意見が分かれるかもしれないけど。ストーリーの展開は、人物相関の力関係によってのみ進む。クドカンの仕事は、最初に人物相関図を作るだけで終わったといっても過言ではない。あとは、周囲の反応を反映させて、アクシデントなんかのギミックをキャラ達の前に投げ出すだけだ。既に完成しているキャラ達は、クドカンの計算ではなく、彼ら独自の反応を見せる。あとは、ギミックに対する人物達の連鎖反応。だから、実はストーリーはもう決まっているのと同じなのではないでしょうか。
例えば、土井垣さんが、いきなりすべてを捨てて、たった一人のために生きるなんてことはありえない。先生が、完璧に自立した一個の人間として強く人生を生きるなんてのもありえない。赤羽ちゃんとベッシーの人生観が完璧に一致するなんて無理だ。これは、作者の作り出した制限ではなく、彼らがそういう人間であるからいたしかたないのだ。だから、きっと、赤羽ちゃんはイボリーと一緒になったほうが幸せなんだと思う。
だから、だからである。赤羽ちゃんはベッシーを好きにならなくてはいけなかったのだ。視聴者を楽しませるために。なんて残酷なんだろう。ベッシーも、きっと、未知の存在でおっさんであり少女でもある、めんどくさい赤羽ちゃんより、同じ世界にいて長い間思い続けてきた先生とのほうが実りある恋を楽しめただろう。残酷である。が、しかし、赤羽ちゃんは不幸ではない。恋する乙女が不幸であるはずが無い。なんて素晴らしい残酷物語。こうなったら最後まで赤羽ちゃんの恋を見届けなければならないのは、必然である。
ところでニンニンこと忍君だけど、彼女が高校時代に流行のアニメの同人誌を作っていたとしても驚きません。しかも、薄っぺらなアニメファン。いまなら種厨というところか・・・。そう思いません?