1. vsZ編

キャシャーン、キュティーハニーそしてデビルマン
この三つの成績いかんによって、今後の日本特撮映画の未来が決まる。

一日の映画の日、三本目「ゼブラーマン」の上映前にこの三本の予告が上映されたのは皮肉なことである。
この三本のライバルは、「スパイダーマン」や「バットマン」ではなく、この「ゼブラーマン」である、と私は思う。
興行成績はもちろん、そのおもしろさも、内実ともに超えなければいけない壁である。

ゼブラーマン」という映画は、総合的にみると良く出来た映画であると思う。しかし、これはやはり「哀しい川を翔ぶ男」哀川翔の映画であることは否めない。特撮ヒーロー映画でもなければ、クドカンの映画でもない(クドカンらしいというところは多々あったが)。これが、正直な感想である。
クドカンに関してはここでは言及しないでおくが、「木更津キャッツアイ」で草野球を斜めに見ていたように、「変身ヒーロー」を斜めに見ているのがよくわかる。真正面から向き合うのが恥ずかしいのか、本当に馬鹿にしているのか、そのあたりは良く分らないが、クドカンの思考のの一端が見える気がする。
ゼブラーマン」が「正統なヒーロー映画」ではない、というのは「ヒーロー」を愛する人なら頷いてもらえると思う。タイトルに「ゼブラーマン」と冠されてはいるものの、この映画では「ゼブラーマン」にはなんの意味もない。「ゼブラーマン」になる必然性がない、変身ヒーローである必要すらない。別に警察官でも、格闘家でも、いや、脅威に立ち向かうのならどんな立場の人間でもよかったのだ。
ヒーローの物語には絶対必要な要素がある。
それは「オリジン」と呼ばれるものだ。いかにしてヒーローはヒーローになったかということだ。仮面ライダーならショッカーに改造され、バビル二世なら遺伝子の目覚め。怪傑ズバットなら親友の形見。スパイダーマンなら蜘蛛にかまれ、スーパーマンは異星人。
そして、多くのヒーローはこの「オリジン」とともにヒーローとなる理由も明らかにされる。(日本の場合はテレビシリーズという形態もあり、この二つは一体となっていることが多い)
これは、ヒーローのアイデンティティを明確にする。ヒーローの思想を明確にするのだ。
しかし、「ゼブラーマン」にはこのあたりの描写はない。それらしきものはあるが、「らしい」だけで、なんの説明にもなっていない。
それゆえ、私は「ゼブラーマン」を「ヒーロー」とは認めたくない。
また演出のやり方でも、彼は「ヒーロー」らしくない。地味なアクションばかりで強さの説得力や、ヒーローとしてのかっこよさもみられない。マシンも活躍せず、最終の必殺技も型破り(あれは個人的には容認派です)。
敵が地味なのは、まあストーリー上いたしかたないとはいえ、残念なところの一つである。
そしてラスト。
あのエンディングはないだろう。内容ではなく、歌だ。あそこは水木一郎の歌う、ゼブラーマンの歌が流れなければいけない。そのままフェイドアウトして「日曜の使者」へと変わるべきだ。
どれをとっても制作サイドが「変身ヒーロー」として「ゼブラーマン」を描く気がないことを表していると思う。無意識なのかどうかはわからないが。
ある意味、この映画は「変身ヒーロー」を否定した映画だと、私はとらえた。
「変身ヒーロー」では「映画」は作れないのだ、そう言われたような気がした。
この映画が日本の特撮映画にどのような影響を与えるのかはわからない。
なんの影響も与えない可能性の方が高いのではあるが、しかしこの映画から学び取るべきことは多々あるような気もする。

ともあれ、「C2D」にとって大きな壁であることは間違いない。