改めて映画「CASSHERN」について。
もしかそたらネタバレありなので、注意。



多分観た人のほとんどが、「“キャシャーン”じゃなくていいじゃん」とか、もっとはっきりと「“キャシャーン”じゃないよ」と思われたのではないでしょうか。
ミカヅキもそう思います。
キャシャーン”である理由というのは、多分監督の芸術的な側面からの理由でしかなく、監督が「反戦」「憎しみの連鎖」というテーマを持つに至った契機である作品が「新造人間キャシャーン」であったことや、そのテーマを具体化する際に「キャシャーン」というモチーフが監督にとっては最適であったのでしょう。他のモチーフを考えなかったのかどうかや、他のモチーフでは具体化できなかったのかどうかなどは、現時点ではまったくわかりません。そういう極めて個人的な動機から生じたこの作品、その後も観客の視点やマーケティングなどをあまり考慮しなかったために、「“キャシャーン”じゃなくていいじゃん」と思われる作品になってしまったのだと思います。ですから、「“キャシャーン”じゃないよ」という感想は当たり前なのです。これは、監督の「キャシャーン」で、「一般の人に見てもらいたい」という監督の言葉は「ファンを対象にしているわけではない」ということだと思います。



しかしミカヅキキャシャーン大好きなので、やはり愚痴ってしまいます。
以下愚痴っていますが、これは「旧キャシャーンファン」としての愚痴なんで、「旧キャシャーンファン」以外の人は気にしないで下さい。

せっかくのヒーローを題材にした映画なのに、あの「ゼブラーマン」よりもヒーローをないがしろにしていると思います。
オリジナルのキャシャーンというヒーローの特徴は、「人間であることをやめる自己犠牲」「人間であることをやめたための悲劇性」「爽快なアクション」にあると思います。それなのに、ああそれなのに、映画のCASSHERNは自らの願いに反しCASSHERNにされてしまうという衝撃のオリジン。中盤、要っち演ずるバラシンとの決闘前にはなんとかCASSHERNとしての自覚を持ちます。(月よりの使者っていうのも一言いいたいところですが)それが自分の罪悪感からというのはいかがなものでしょうか?まあいいです。普通の人には「何故ヒーローはヒーローになったのか」=「オリジン」ということはそこまで重要ではないでしょうから。(でも、この後ろ向きなオリジンこそがこの映画全体を支配してしまったような気がします)
「人間であることをやめたための悲劇性」に関しても、「おいおいゾンビ映画だったのかよ」とミカヅキは思ってしまったルナの復活で台無しです。「キャシャーンが人間にもどれない」という意味は、「ルナは人間である」ということ抜きには語れないはずです。この「非人間」と「人間」の恋愛というテーマは、とても面白いので期待していたのでがっくりです。(このあたり上手く描いたものがあれば教えて下さい。非人間の人間愛はよくあるんですが。恋愛ではなく人間愛になってしまうのはこのテーマが持つ内的必然性なのかもしれませんが)
さて、「アクション」ですが、まあ、よいです。が、キャシャーンのアクションはユダ様が見とれた南斗水鳥拳ばりの美しさにあるのではないでしょうか?たしかに樋口監督の描いたバトルシーンは良く出来ています。概ね好評のようですし。(ミカヅキ的には鬼武者3のオープニングデモの方が上だと思いますけどね)しかし、これは映画全編を通していえるのですが過剰な書き込みのため美しさが死んでいると思いました。細身で白い、か弱そうなキャシャーンが、ふわりと宙に舞い、青空をバックに一回転、まさに優雅な水鳥のように。そのまま振り下ろされた手刀がダイナミックに爪ロボを一刀両断。この「美」と「力」の二律背反こそがキャシャーンの持ち味です。その為なら、スピード感は犠牲にしてもよかったのではないでしょうか。もうすこし美しく闘って欲しかったです。


ちょっと長くなりすぎ。
今回は「愚痴編」ということで。次回はもう少し客観的な「映画CASSHERN」の感想を書きます。