何故に、映画版「デビルマン」があれほどの駄作になったのか。
人それぞれの意見があるかとは思いますが、ミカヅキ私見を述べたいと思います。

監督、役者、CG、プロデューサー、果ては配給会社、そして現在の映画を取り巻く前時代的且つ排他的な環境・・・。いろいろ問題はあるかと思います。
しかし、ミカヅキとしてはあの脚本こそ最大の癌であると思います。

今回の映画の脚本の最大の特徴は、飛鳥了の迷セリフ「かみはいたか〜」の薄っぺらさが表すとおり、神の不在にあります。飛鳥了=サタンのアイデンティティーは、「不動明への愛」と「神への反抗心」です。サタンをサタンたらしめている二つの大きな柱のうちの片方が完全に消去されてしまったのです。
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このために、サタンのキャラクターは幼児化を余儀なくされました。サタンの存在意義は、単なるデーモン一員でしかなく、明への愛は不可解な一方通行なものに成り下がりました。「神への怒り」と「地球の先住民という権利意識」の無いデーモンは、「大義無き力」でしかなく、そのいみではそのへんのチンピラと同じです。そしてこの価値の喪失は、デーモンの敵である「デビルマン=明」にまで及びます。チンピラの喧嘩相手は、やっぱりチンピラでしかないのです。だから、映画で「不動明」は「同族」であるはずのミーコを見殺し(に近い状態)にします。
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そもそも物語はキャラクターが中心です。「主役」をいかにして描くかが最重要なはずです。物語の中に含まれる要素の総ては、「主役」を表現するためにあるのです。その意味で、一番重要な存在が「ライバル」です。「ライバル」は主役の鏡であり、補足なのです。その最重要なキャラである「サタン」の最大の要素である、「神に関する設定」を無くしてしまうというのは、「神でも悪魔でもある最強の敵」に敢然と立ち向かう「悪魔でもあり人間でもある不動明」という図式を「よくわからないけど強いが頭の弱い生物の一匹」に無様に死をこいねがう「よくわからないけど強いが頭の弱い生物になってしまった不動明」というどうしようもないものにしてしまうということなのです。
物語の根本が、こういうものに成り下がってしまったため、それを取り巻く総ての要素は馬鹿げたものにしか見えなくなってしまいました。
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*1:「人間不動明への愛」は、原作版でもその根拠は明確ではなく、「両性具有だから・・・」という理由とも付かない理由で示唆されるにすぎません。無理やり解釈するならば、「両性である」=「サタンはパートナーとしてどちらの性を選択することも可能」ということであり、また「性別不明ではないということは、異性のパートナーを必要とする」というふうにも解釈できると思います。それを踏まえると、サタンがパートナー(その正確な意図は不明ですが、多分に精神的なものだと思います。結果論ですが、神に対峙する為に必要なのではないでしょうか?)を必要としており、それが「不動明」という精神だったのではないでしょうか。物理的に共に闘う仲間ではなく、精神的にサタンの支えとなる存在こそが、不動明だったのだと思います。以前の神との戦いでは、そのパートナーがいなかった故の問題もあったのではないでしょうか。そして、飛鳥了として人間界に潜入しているうちに、「不動明」と出会い、神との戦いの最後の欠片を見出したのではないでしょうか。ミカヅキ的には「不動明」が「アモン」と合体した事すら、サタンの戦略だと思っています。そして「バイオレンスジャック」における「人犬」は、「神としての後悔」ではなく「明の死」=「四肢を喪失」ということの表れなのではないでしょうか。「バイオレンスジャック」の世界で、「ジャック=明」は人間の様々な姿を垣間見ます。善も悪も、生も死も、「ジャック=明」は「関東」で人間の本質を見たのではないでしょうか。そして、サタンは二度目の戦いでは退きます。次に、「デビルマンレディ」の世界を生み出すために・・・。

*2:デビルマン一族の長である明を失った他のデビルマン達は、永遠にゲリラ的にサバイバルを行うしかないのです。日本刀を手にしたミーコの戦いが無様なのは、戦う意味に大義がないからなのです

*3:もちろん、「神」を描く事の難しさというものはあるでしょうが、それはまったく別の問題で、そこで初めて監督の手腕の話になるのではないでしょうか?今回の映画において、監督の最大の落ち度は脚本に対してノーを言わなかったことだと思います。