人間

つらつらと昨今の事件を考えてみるに、その本質的原因、動機そのものではないのだが、動機に行動力を与えているものは、関係性の欠如ではないかと思う。ここでいう関係性とはもちろん対人関係のことである。一般的に犯罪やそれに類する行為を行う場合、その執行者の社会性の欠如が問題になる。つまりは、社会生活に適応できないために、反社会的行為すなわち犯罪に走るというわけである。もちろん、いまだにそういう場合はおおいだろう。逆にいうと、魔が差したと程度であれ、犯罪を犯したからこそ社会性にかけると判断され、さらに犯罪の世界に足を踏み入れるという悪循環が多いと思われる。だが、魔が差した等では済まされない犯罪が増加している。それらの犯罪を一言で表すと、対象に対する人格の積極的否定行為といえるのでないだろうか。人を人とは思わない、というのは使い古された言葉ではあるが、そういった性向を持った人が増加しているのではないだろうか。
例えば、ある集団に所属する人間が、その集団に所属しない人間を人間とみなさないというのは、戦争を見てみると人間の一つの特性ではないだろうかと思える。しかし、同じ集団に属するものには人間としての尊厳を認めることは可能なのである。日本は近現代の歴史において、競争社会、個人主義自由主義といった名のもとに、前者は放置し、後者を排除してしまったのではないだろうか。
現代の日本において、人間同士の関係性を、構築維持するのは非常に難しいと思う。大きく見ると、国や社会は、人間同士の繋がりと金銭を秤にかけ、会社では同じく成績や利益が重要視され、学校では関係を強化することよりも個性を格差と教え込み、家庭では構築の重要手段である時空間の共有が減少し、個人の心の内においては在りうべき自分のビジョンが持てず他者との関係に現実感を見出せない。
少しステロタイプな分析になってしまった感はあるが、現状はそういうことだと思う。
関係性を持てない、育て得ないということは、他者の命はもちろん、自分の命に意味を見出せないのも無理はない。ゲームやパソコンといった情報メディアによって、生命とデータの違いを理解できないという識者の意見も、頷ける。
個人的な話になるが、自分自身、生きる意味が見出せないと虚ろな気持ちになることが多い。逆に死にたいほどのなにかが無いから死なないだけのような気もする。
こういった傾向は当分続くのだろう。