人間

閑話休題
現代人の身体性というものの考え方がすこし変わりました。
例えば、オウム真理教の信者達がいかにして狂信的になったのか、という事に関してなんですが、従来の私は、洗脳がその大部分を占めると思っていました。しかし、幹部クラスが麻原を信用した背景には、現代人の身体的脆弱性が隠れていたようです。宗教的にいうと神秘体験です。麻原はもともとヨガの修行をしていたのですが、信者にもその荒行を強要しました。そして、信者にその後表れる身体的体験を予言して見せました。それは多分、かつて麻原が修行中に体感した、当たり前の身体反応なのでしょう。しかし、そういった体験に対して未体験だった信者は、これこそ麻原の神秘的力であると思ったのです。また、それは身体的体験に未成熟で無防備であるエリートと呼ばれる人種にはより一層の効果があったようです。麻原の言動ではなく、自分の身体が感じた新しい感覚こそが、オウムを狂信する、強い根拠になったのです。頭脳労働者ほど、この陥穽におちいりやすいようです。ちょうど、純朴な田舎の人間が都会の詐欺師に騙されるのと逆なわけです。身体的詐欺、そういうものが存在するのです。
いわゆる詐欺の被害にあった人に対して、我々は、同情とともに騙される側も悪い、という思いを持つことも多いと思います。それは、自分なら騙されないという驕りが感じられます。確かに現代人は、口車というものに用心しており、そう思えるだけの耐性を持っていると思います。それでも騙される人は、完璧に騙されます。これを規準に、身体的詐欺を考えてみると、その騙され具合は強烈なものではないかと思います。身体反応は極めて個人的体験であり、100の甘言より深く精神に影響を及ぼすからです。また、プライドという厄介なものが、自分と言う特別な個人が体験した現象は、やはり他には無い特別な現象である、と誤信させてしまいがちです。他者との関係性の薄いものほど、身体が感じた事柄を、自分の頭の中でひねくりまわしどんどん深みにはまっていくのは想像に難くないです。一人で寝ていて、怖いと思ったらどんどん怖くなるのと同じではないでしょうか。
現代人は、身体感覚が未熟なため、そしてそれに反して思考先行なきらいがあるので、身体の反応に過剰な評価を示してしまうのではないでしょうか。痛み、熱、眩暈、幻覚、そういったものに過剰反応するのは、自己愛だけではないと思います。SEX先行の恋愛とはそういうことだと思います。初体験のみならず、いままでで一番快感を与えてくれた相手に対して、身体感覚の衝撃=愛の証明と考えるのも無理は無いでしょう。恥ずかしながら、自分も覚えがあります。まあ、数さえこなせば、このへんは回避できるのでしょう。しかし、身体の感覚に関して、我々はあまりに無防備です。
つまりは、身体の感覚に勝手に意味をつけてはいけない、そして、そういう罠があると自覚しておく、というのが大事なようです。